保育園の創業物語(その1) | 彩の調保育園

保育園の創業物語(その1)

  
編集者

いろどり採用チーム

2023年10月04日

  

保育園の創業物語(その1)

皆さん、こんにちは。僕はさいたま市という街で、彩の調こども園という保育園を開園し、試行錯誤しながら経営しています。

今回は僕が保育園を創業するまでの話を振り返ってみたいと思います。

大学を卒業して就職する

僕は、法政大学法学部を卒業して、大同生命という生命保険会社に就職しました。

大同生命は主に中小企業経営者向けの生命保険を販売する会社で、主力の販売ルートのひとつとして全国の会計事務所が顧問先に代理店として保険を販売していました。

僕は大学生の頃から「いつか経営者になりたい」と思っていて、中小企業の経営者や税理士・会計士とコミュニケーションを取る仕事に就けば、事業アイデアや経営に必要な知識が身につくと思って入社しました。

入社後は、代理店営業や企画部という本社部署で経営企画の業務に携わりました。

結婚し、家族ができる

そして、会社の同期として出逢った妻と結婚し、さいたま市南区に住むことに決めました。

最寄り駅はJR京浜東北線の南浦和駅。

結婚した当時、私たち夫婦の勤務地がJR浜松町駅の近くにあり、JR南浦和駅は京浜東北線の始発駅でもあったので、会社のある浜松町駅まで座って通勤できることが南浦和に住むことを決めた最大の理由でした。

子どもが生まれる

その後、私たち夫婦は長女と長男を授かり、子どもたちが生まれました。

その間、妻は産休・育休を取得して仕事をお休みしていました。

その頃、会社に勤めながら、海外MBAに私費で留学したいと考えていて、受験準備を進めながら留学資金を少しずつ蓄えていました。

当時の僕は、経営者になることに憧れていましたが「これで起業したい」と思える事業が思い浮かばず、何か事業アイデアを見つけるきっかけが欲しくて留学したいと考えていました。

保育園が見つからない

そうこうしているうちに、子どもたちはあっという間に成長し、妻も復職の時期が近づいてきました。そこで、私たち夫婦は保育園を探し始めましたが、当時は【保育園落ちた、日本死ね】のブログが連日メディアで取り上げられる、まさに「待機児童時代」でした。認可保育園はもちろんのこと、認可外保育園もキャンセル待ちで入れる保育園がありませんでした。

起業アイデアが湧きがる

保育園が見つからず、私たち夫婦はジリジリと焦りはじめていたある日曜日の夜に、たまたま観ていたテレビ番組で、とある幼稚園で取り組んでいる幼児教育を取り上げていました。

はじめは何気なく番組を観ていましたが、ふと気がつくと「自分の子どもにはこんな教育を受けてもらいたいな」とか「子どもが通う保育園はこんな雰囲気だったらいいな」と考えながら前のめりになっている自分がいました。

その時、これまでのキャリアで意識したことがなかった「教育」という分野に僕自身がとても関心があるということに気がつきました。そして、僕の心の中で「保育園がないなら、自分でつくればいい」という気持ちがグググっと湧き上がってきました。

一方で、大学を卒業してから9年かけて探し求めてきた起業のパッションが突然に湧き上がってきたことに戸惑いも感じました。保育の経験も知識もない自分が保育園を作ることなんかできるわけがないとも思いました。

それに「保育園」という事業は僕がイメージしていたITや金融といった分野での起業のカタチとは大きく異なるものでもあったので、僕自身も「本当に保育園?」という気持ちもありました。

ただ、頭の中では「知識も経験もない自分が保育園を作る必要はないでしょう」という理性的な考えが巡る一方で、心の中では「起業するなら絶対に保育園」というパッション湧き上がり、頭の思考と心の情熱が矛盾していました。

そこで、なんで「保育園」という事業に情熱を感じるのか、僕の心の中を掘り下げてみることにしました。

保育園と自分

僕は1987年に埼玉県朝霞市で生まれました。両親と僕、妹の4人家族。両親はともに公務員で、共働き家庭でした。

僕が生まれて数ヶ月経つと、母は職場に復帰していました。毎朝、母は抱っこ紐で僕を抱えて満員電車に乗って隣駅にある認可外保育施設に預け、駅に戻ってもう一度満員電車に乗って都内に出勤していました。

2歳児になった頃、自宅から徒歩20分ほどの場所にある公立保育園にようやく転園でき、卒園まで通いました。

当時は子育て家庭の7割超はお母さんが専業主婦の家庭で幼稚園に通っていて、保育園を利用する家庭は全体の3割未満だったと言われています。

当時は、産休・育休制度は現在のようには整っていませんでしたし、電車にも女性専用車両はなく、いつ泣き出すかわからない乳児を抱えながら満員電車に乗って出勤する日々は大変だった思います。

保育園に通っていた時期の記憶を思い返すと、家庭は円満で両親から愛情をたくさん注いでもらっていましたし、通っていた保育園の先生たちも温かく接してくれて楽しかった記憶が残っていますが、ただ感情としてはいつも「さびしさ」を感じていたように思います。

幼児期に感じていたこの「さびしさ」こそが保育園の起業にパッションを感じる理由になっているような気がして、さらにこの「さびしさ」を掘り下げてみました。

保育園児の頃に感じていた「さびしさ」の正体

当時を振り返ると、母と父は完璧に家事を分担していて、公立保育園に転園してからは父が僕と妹を保育園に送り、お迎えは父と母が仕事の都合に合わせて交代で行っていました。

家族の食事の準備は母が担当し、父は食事の後片付けや子どもの入浴、洗濯、保育園の準備を担当していて、掃除は毎日出勤前に協力して行っていたように思います。

父も母も保育園での出来事をよく把握していてくれましたし、子どもの話もよく聞いてくれていたように思います。

では、あの当時感じていた「さびしさ」とはなんだったんでしょうか。

母と父に共働きをしていた動機や当時の心境をあらためて聞いたことはないのですが、思い返してみると、あの当時、両親とくに母が僕や妹に対して母が働いていることや幼稚園ではなく保育園に通わせていることを申し訳なく思っているんだろうなと、なんとなく、ただ、ずっと感じていたことを思い出しました。

ある日、保育園の帰り道に近所のおばあさんに「こんな時間までお出かけだったの?」と尋ねられ、「保育園から帰るところ」と答えると、「あら、保育園に預けられて可哀想ね」と言われたことがありました。

当時の世の中の子育ての価値観として「お母さんが働いていること」は子どもにとって「可哀想なこと」であり、「幼稚園」は「子どもが教育を受けるために積極的に通うところ」だけれども、「保育園」は「親の事情でやむを得ず子どもが預けられるところ」というバイアスが根強く残っていました。

思い返すと近所のおばあさんだけでなく、大人から「可哀想」と言われたことは何度もあったように思います。当時の僕は「何を可哀想だと言っているのか」を理解できなかったので傷つくこともありませんでした。

一方で、母は、他人が我が子に「可哀想」という言葉を掛ける様子を目の当たりにしたり、世の中の「保育園=可哀想」という雰囲気の中で働き続けて行くために辛いことも多かったことは容易に想像がつきます。

「家庭」と「仕事」が天秤で計られる価値観のもとでは、「子ども」と「仕事」はどちらか選ばなければいけない選択肢であり、「仕事を続ける」ことを選ぶと「子ども」を選ばなかったように思われる。

そんな価値観の社会の中では、女性が子育てをしながら働き続ければ続けるほど、世の中の価値観との摩擦が生まれ、いつも誰かに批難されているように感じて「働く自分」への自己肯定感が下がってしまうのだと思います。

だからあの当時、子どもだった僕は、母が僕と妹に対していつも申し訳なく思っているように感じていたんだと思います。

我が家は母と父が家事を分担していたように、社会のことや世の中の仕組みについても母と父から教わりました。

母と父はよく家事の分担ややり方で夫婦喧嘩もしていましたが、職場や仕事の悩みや相談を打ち明けて助け合ってもいました。そんな様子を見ていて、共働きの両親が大好きでしたし、働く母を誇りに思っていました。

だから、働くことに肩身の狭い思いをする母の姿を目にしたり、働き続けることに申し訳なさを母が感じていると伝わるたびに「さびしさ」を感じたのではないかと思います。

「さびしさ」が情熱に変わる瞬間

僕自身が結婚し、子どもが生まれ、妻とともに「共働き or not」の決断をする岐路に立ちました。

当時は待機児童問題があったので、保育園に入れなければ強制的に「共働き」の選択肢はなくなるわけですが、保育園に入れて「共働き」という選択肢を選んだとしても、僕が子どもの頃に感じた「女性が子育てしながら働くことの難しさ」はまだまだ解消されていなくて、どれだけ僕と妻の間で家事を分担し支え合ったとしても、妻は「働き続ける」という選択をしたことで苦しむだろうし、そんな妻の姿をみて子どもはさびしさを感じるように思えてなりませんでした。

僕のバックグランドを掘り下げたときに「両親が共働きであったこと」や「保育園で経験して学んだこと」は間違いなく現在の僕自身をカタチづくっていて、僕たち夫婦が共働きを選択する岐路に立ったときに、保育園の数が足りないことを含めた保育園のあり方が社会で問われたタイミングが重なり、これからの時代の保育園の価値を自分が生み出したいという使命感にも責任感にも似た気持ちが言葉にならない「情熱」として湧き上がってきたのだと思います。

妻に打ち明ける

翌日、妻に「会社を辞めて、留学も辞めて、留学資金として貯めたお金を元手に保育園をつくりたいと思うんだけど、どうかな?」と相談すると、唐突すぎる提案に初めはかなり驚いていましたが、「どのみち保育園が見つからなければ私たちのどちらかは会社を辞めることになるんだから、何もしないでその時を待つよりも行動した方がいい」と僕の予想に反して賛同してくれました。

会社を辞めて、会社を作る

そして、妻との家族会議が平成28年11月末のことで、その1週間後に会社を辞めることを当時の僕の上司に伝え、年が明けた平成29年1月末で9年間勤めた会社を退職しました。

そして、3月に株式会社Lead Discoveryを設立し、7月に認可外保育所「彩の調こども園」をJR南浦和駅西口から徒歩5分の場所に開園しました。

保育園が出来るまでの苦労や葛藤した話を次の機会にまとめてみたいと思います。ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

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